。。。家族の選択。。。

2009年8月25日この世を去った義弟の介護の日々。。。         2013年6月30日を持って終了しました。。。

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いろんな感情

2007.04.02 (Mon) はじめに。。。

おそらくAちゃんと私の親は、ごく一般的な親なのだと思う。
自分のことより、まず我が子。
誰でもが持つ、無償の愛を与え続けてくれているのだと思う。

主人の両親は、それとは違う愛情表現だったのではないかと思う。

主人は、娘と向き合うようになってから親の気持ちが
少しずつわかってきたと言っていた。
「だって、俺らは相当な悪ガキだったもんな~」
そう言いながら、なぜ自分が怒られたか?殴られたか?
そんなことも思い出したようだった。
火遊びをして、原っぱで火事を出したこともあるそうだ。
「そりゃあ、殴られるよな」
主人はそんな子供の頃を、笑って話してくれるようにもなった。

主人の両親は私との付き合いには反対だったけど
一旦は折れてくれて、その頃1度だけ実家に義弟夫婦と泊まったことがある。
義弟夫婦には、フカフカの羽根布団。
私達には布団がないからと、掛け布団にシーツを敷いた布団。
私は長男夫婦は家の者、次男夫婦はお客さんなんだと思っていた。
最近になってその話が出た時に、主人はまったく違う
受け取り方をしていたことがわかった。
あくまでも付き合いに反対していたから、ああいうことをしたんだと言った。
でもね、その前に義母は私に同居の話もしていたし
主人の勤め先もあると言っていたし、保育園まで探してあると話していたんだ。
だから私はそう受け止めたけど、もしかして違っていたのかと思ったら、
私って、どこまでもポジティブな人間なんだと笑ってしまった。
「単なるバカだ!」
主人にはそう言われたけど(^m^*)

極度の人間不信な主人だったけど、今はエロ親父全開で
立派なオヤジになるんだと言っては、私達を笑わせてくれる。
娘もそんな主人を、実の父親以上に慕っている。

「俺の親父は、そんじょそこらにいる親父と違う」
「あの親父に育てられたから、今の俺がいるんだ」
主人は父親のことをそんな風に話すようにもなった。
今でもお金の無心は時々あるけれど、意見もするようになった。
私もいろいろあったけど、義父のことは嫌いではない。

けれど、義弟はやはり義父を毛嫌いしていたし
Aちゃんも自分の父親と比較もしただろうし、社内での噂も聞いていたのだろう。
いろんな出来事の中で、不信感が嫌悪感に変わったとしても
それは責められることでもないと思う。
Aちゃんの中では自分の夫の家族は、関わりたくない存在になっていったのだろう。

義母が余命を宣告され、毎週お見舞いに出かけていた主人と義弟夫婦だったけど
また病院で、義父でモメたらしく翌週は行かないことに決めていた。

その週末が、義弟の運命の日となった。

人間の感情とは、時に残酷で醜いものにも変わることを
私自身も体感していくことになる。


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主人の両親

2007.04.02 (Mon) はじめに。。。

主人と付き合い始めた頃、主人の口から父親の話は頻繁に出るけれど
母親の話はほとんど出てこないことが不思議だった。
「親の愛情を一切感じたことがない」
主人と義弟は、揃って言っていた。
父親からは殴られて育ったと言い、母親は何もしてくれなかった言う。

夕飯で天ぷらを食べていて、天つゆにの中にご飯粒が入ってしまっただけで
「何やってんだ!」と顔につばをかけられた言う。
親戚が集まり、いとこ同士で遊んでいる時、自分は少し離れた場所で本を読んでいると
「なんでみんなと遊ばないんだ!」と言って、殴られた言う。
義弟は、母親の口紅をふざけて塗ったところを見つかり母親が
「憲児が死んでしまうから、もうやめて!」
と止めに入るほど、殴られていた言う。
お昼におなかが空いて帰り、母親に「飯は?」と聞いたら
「オレはもう食べた」と言って、何も出してくれなかった言う。
おもちゃはたった一度だけしか、買ってもらった記憶がないと言う。

「あの二人が恋愛結婚だなんて、俺には信じられない」
そんなことも主人は言っていた。
確かに私の常識では考えられないことも多かったけど
月に一度、家族で外食もしていたと言うし
旅行にも度々、出かけていたらしい。
お姉さんが小さい頃、交通事故に遭い入院。
それに付き添うため母親は出かけると、父親は会社を休み
双子の面倒を見たと聞いたし
「自分の部屋が欲しい」と言った子供たちのために、家を増築したと言う話も聞いた。

話を聞くうちに、愛情表現のヘタな両親ではないかと思った。
そして双子の受け取り方も、少し違っていたような気もした。

夫婦仲は、あまり良くなかったのはわかる気がする。
義父は、会社の人たちも良く知るほど女好きだったようだ。
女性問題で、義母は泣かされていたらしい。
けれどその義母も、主人が高校3年生の時男の人と家を出てしまったらしい。
義弟はすでに、義父の会社に入り寮生活をしていたので実家にはいなかった。
どれくらいの月日出ていたのかわからないけど、後に主人が母親から聞いた話では
義父が土下座をしてあやまり和解して、戻ったと言っていたようだ。
だけどすぐに、義父の女性問題はまた始まったようで
私と付き合い始めた頃も、義母がそのことで主人に電話をしてきたことがあった。

主人が社会に出てからは、お金を無心をするようになった義父。
主人も逆らうことなく、自分が働いたお金を義父に渡す。
義母と義母の妹とその子供たちは、主人のことを『伝書鳩』と呼んでいたらしい。
そのお金は、すべて女性に使っていたようだった。
飲み屋の女だったり、フィリピン女性だったり
遊ぶお金が無くなると主人に連絡が入り、主人もまた黙って渡す。
「親父に金を渡すな」
義母は顔を見るたびに言っていたようだけど、なぜか主人は父親に意見することはなかった。
義弟にはお金の無心はなかったようだけど、義弟も父親のことは毛嫌いしていた。
工場長となり結婚をし、一戸建ての家を持つようになると
「俺は親父を超えた」
そう言っていたけれど、やはり義父に口答えをすることはなかった。

定年後数年経ったその日、義父は自分の体調が悪くなった時
仕事に出ていた義母に連絡を取り、すぐに仕事から戻った義母と病院に向かった。
その結果、心筋梗塞がわかりそのまま入院となった。
連絡を受けた主人と義弟夫婦はあわてて病院に向かい
3日程して容態も安定したと言って帰ってきた。
が・・・問題が勃発していた。
義父は国民健康保険に入っていなかったのだ。
入院費用をどうするかと話していると、義父はベッドの上で意図も簡単に
「子供らに払わせろ!」そう言ったのだそうだ。
これにはAちゃんが一番怒った、当たり前の話だ。
1週間で120万の入院費だったけど、健康保険に加入し定年後からの
保険料を払えば、入院費用は安くなる。
保険料と入院費用で、半額の支払いで済むことはわかっているがそのお金が実家にはない。
主人は当然のことながら、その費用を出すつもりでいたようで
私にいつでも出せるように準備しておいてくれと言っていたけど
実は病院で、かなりモメてきたようだった。
すぐにAちゃんから電話が来て
「恵子さん、絶対お兄ちゃんのお金出さないで。
 お兄ちゃんが出せば、私達も何かしなくちゃいけなくなる。
 それにまずは実家でどうにかしてもらわなくちゃ。
 年金だって1回に40万以上もらってるし、お義母さんだって働いてるんだし
 株も持ってるらしいから、まずはそっちから使ってもらうから」
Aちゃんの剣幕はすごかった。
その後しばらく、義父の病院には行かなかった主人と義弟夫婦。
義父は姉の子供達に、学資保険をかけていたらしくそれを解約して
保険料と入院費用に当てたらしい。
1ヶ月程して、顔を出さない主人のところに義母と義姉から連絡が入った。
「お前達は、父親を父親と思わないのかっ!」
親戚やご近所さんにも、親不孝な息子達だと言われていたらしい。
手術をするのも、自分の血を何度か渡って抜きそれを使っての手術の方が
安く出来るからと言って、今は血を抜くことから始めていることも聞いたようだ。
結局また義弟夫婦と話し合い、病院通いが始まった。
数ヵ月後手術は成功し、今もお薬は手放せないが元気に暮らしている。

義父が退院後、Aちゃんはあまり主人の実家には行かなくなり
主人と義弟とで行くことが多くなった。

主人の実家では、私との付き合いはもう終わっていると思っている。
だから主人は、実家で起きたことに私は一切ノータッチでいいと言っていた。
私が嫌な思いをするだろう言う気持ちからの言葉だったと、私は思っている。

だから元旦は、主人は義弟夫婦と実家へ、私も娘と弟夫婦と実家で集まっていた。
2回目の同棲が始まって初めてのお正月、2000年の元旦もそうだった。
「お袋、なんか風邪引いたみたいで食欲がないみたいだ」
帰ってきた主人がそう言っていた。
義父と義母は別々の部屋で寝ていたらしいけど、どんどん痩せていく義母を
不信に思っていると、自室でこっそりと吐いているのを見つけ
義父が無理やり病院に連れて行ったのが1月の終わり。
診断結果は末期の胃がん、手術は不可能余命3ヶ月と宣告された。
また主人と義弟夫婦の、病院通いが始まった。

夫婦仲のあまり良くなかった主人の両親も、年齢と共にそして病気によって
お互い歩み寄り始めていたのかもしれない。
そんな風に両親の話を、主人が少し嬉しそうに話していたのを思い出す。

仲が良くなくても、やっぱり長い夫婦生活の中では
お互いを頼る信頼関係も出来ていたのだろうと思う。

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私の両親

2007.04.02 (Mon) はじめに。。。

私の両親は、私の目から見て仲の良い夫婦だったと思う。
もちろん離婚を騒いだ時期もあったけれど
決して女性問題とか、借金とかそう言ったドロドロとしたものではなく
本当に日常にある些細なことでのケンカだったように思う。
私が最初の結婚をした時、母にこう聞かれたことがある。
「お前達は夫婦ケンカをすると、長引く方なの?」
「うん、1週間ぐらい話さない時もある」
「お母さんはお父さんとケンカしても、翌日には忘れちゃうのよね」
お見合い結婚だったと言う私の両親は、結婚式前3回しか会っていないらしい。
母の恋愛話も父とのことも、母が時折話してくれていた。
母は私の気持ちに、すごく敏感な人だった。
「ただいま~」の声一つ、顔色一つで「何かあったの?」と鋭く言われる。
それがうざったい時期もあったけど、娘を持った今は母の気持ちがよくわかる。

母が『肺繊維症』と言う難病に侵されてからの、父の献身的な介護は
娘の私でも頭の下がる思いだった。
「自分の女房のことは、自分で看る。子供達の手は借りない」
それが父の信念だったようだ。
そんなことは一言も口には出さなかったし、もっと頼ってほしかったけど
父の行動や言動で、そう思っていたのだろうと想像が出来た。
入退院を繰返した母だったけど、当初は「恵子、恵子」と言っていた母が
いつしか父だけを頼りにしていくのは、しかたのないことだった。
私は結婚をして、実家から1時間以上かかるところに住んでいたし
娘はまだ1歳で保育園に預けて仕事もしていたし
週に一度、土・日をかけて実家や病院にに来ていた私も
母の余命を宣告されてから、顔を見るのが辛くなり
時折実家に行くことを休んでしまってもいた。
体調が悪いから入院したいと言う母だったけれど
今まで診てもらっていた病院では受け入れてもらえず
新しい病院を見学しに行くと言っていたので、その前日の日曜日
母の様子を見に出かけ、頭を洗い身体を拭いて帰りがけ
「また、明日からがんばってね」と声をかけると母は
「お前もね、がんばるんだよ」
これが母と交わした最後の言葉になったけど
「お前もね、がんばるんだよ」
この言葉は、その後の私の人生において勇気をくれる言葉になった。
その3日後、平成元年6月28日
母は父だけに看取られこの世を去った。
親不孝な私と弟は、母の最期に立ち会うことは出来なかった。
母が亡くなって、2年後に離婚に踏み切った私。
母子家庭を始める私に父が言ってくれた言葉は
「苦しくなったら、いつでもここに帰って来い」
この言葉も、私の力になった。
その翌年、弟も結婚して実家を出て父は一人暮らしとなった。
母子家庭をしている時も、私の顔を見れば黙ってポケットに
諭吉さんを数枚入れてくれる父。

8年ほど前から、パーキンソン症候群を患い始めた父は
70歳を超えて仕事も無くなり、一人暮らしにも不安になったのだと思う。
母を最後に立ち会えなかった私が、父は最期まで看たいと言う気持ちに
主人も賛成してくれていた。
すでに義弟も一緒に住み始めていたので、同居は無理でもせめて近くに連れてきたい。
そう思ってもなかなかいい返事をしなかった父が
「夜眠ると、朝目が覚めなかったらどうしようって思うんだ」
そんな弱音を吐くようになったとき、やっと我が家の近くに越してくるとことに同意したので
我が家から歩いて5分のところに引っ越しをさせる事が出来た。
朝晩一緒にわんこのお散歩にも出かけ、食事も毎日とは行かないけど
手作りを食べさせてやることが出来るようになった。
病院にも付き添って行くことが出来る。
週に一度、父と二人で買出しにも出かけられる。
母と出来なかったことを、父と一緒にすることが出来る。
年齢的なものだと言われたけど、物忘れも激しくなってきて
老人の一人暮らしで、普段は会話もなくテレビを見るばかり。
私も義弟のこともあるため、日中は顔を出すこともなかなか出来ない。
父に少しでも、楽しい時間を持たせたいと思い
昨年暮れに介護保険を申請して、『要介護1』と診断が下され
今は週2日、デイサービスにも通い始めた。
週に2回、ニコニコ笑顔で出かけていく父の顔は、私の喜びにもなった。
施設での話を、嬉しそうに話してくれるので父との会話も増えた。

守ってくれていた父が、老いては子に従えとなり
今は微力ながら、私が守る側になりつつあるのかもしれない。

甘えん坊でわがままな私だけど、弟と共に
この両親に愛情たっぷりに育てられたと感じている。

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主人と私・義弟とAちゃん

2007.04.02 (Mon) はじめに。。。

私は主人と再婚です。
最初の結婚は、同棲からの出来ちゃった婚でした。
同棲を始めた時に転職した運送会社で、娘・彩佳が生まれ
保育園入園までの間は、自宅で仕事をし入園と同時に復職。
家庭の事情を理解してくれて、今で言うフレックスタイムでの
勤務でしたが、子育てと家事、元旦那の仕事と運送会社の仕事。
寝る間はほとんどなく、元の旦那は仕事もやるけど遊びもやる。
新しいもの好きで、TVもローンで買いローンが終わる頃には
次の新しいTVを購入、まだ使える古いTVは誰かにやってしまう。
身入りも大きいけど、出て行くお金も大きい。
私のお給料さえも、右から左に無くなっていく。
それでも、信頼関係が成り立っている間は苦にならなかったのです。
元の旦那は、自営業で仕事柄出張も多く4年半の結婚生活でしたが
一緒に暮らしたのは2年なかったように思います。
その間に、私の母が55歳で他界もしました。
出張が多かった・・・それは他にも理由がありました。
どこにでもある女性問題、それと同時に使途不明金が出てきた。
家計は火の車なのに、何に使ったかわからないお金。
名古屋に出張のはずが、錦糸町でキャッシュカードを使う。
私の不信感は爆発寸前のところで、それは現実だと言うことが発覚。
心身共に、クタクタになっていました。

主人と義弟は双子、2歳上に姉もいます。
双子にありがちな名前で、憲一・憲児。
双子とは言え、長男次男はきっちり区別して育ったようで
小学生の時、主人に付いたあだ名は『お兄ちゃん』でした。
義弟が『お兄ちゃん』と呼んでいたからだそうです。
また両親も姉も、事あるごとに
「憲一、お前は長男なんだから」
と言っていたし、私もそれを聞いたことがあるし、義父も
「憲一には、この家を残すから」
と言っては、ほとんど金銭的にだけど主人を頼りにしていました。
主人から聞いた話だけど、主人は義父に言われるまま
高校卒業後、自衛隊に入隊しました。
と言うのも、義父自身も自衛隊空挺団出身。
「自衛隊で鍛えられて来い!」
と言われたそうです。
6年間の自衛隊を経験後、夢だったトラッカーになるため
私の勤めていた会社に主人が入社してきました。
そこで主人と私は出会いました。
私はほとんど印象がなかったけれど、主人は
「この人と結婚するかも・・・」
そんなことをふと思ったと言っていました。
だけど結婚もしていて子供もいる私
「そんなわけないか・・・」
と思ったそうです。
主人が会社に入社した頃は、まだ元の旦那とも何事も無く過ごしていました。
その約2年半後に、主人と私の赤い糸がつながることになります。
クタクタになっていた私の心の隙間に、主人がすっぽり入ってきた。
離婚までは出来ない、子供のためと言い聞かせていたけど
気持ちに嘘は付けない。
たった一度だけ、二人でデートをして終わりにしよう。
主人にも別支店へ転勤の話もあり、主人もその後転勤して終わりにしよう。
二人で別々にそんなことを考えていたけれど、そのたった一度が
二人で、ただ1日を過ごしたことが私の気持ちを決めさせました。
「離婚して、実家のある横浜に行く」
必要最低限の荷物と娘を抱えて、家を飛び出し
家賃4万円の風呂なし7畳一間に3畳の台所
仕事は結婚前に務めていた会社に、出戻ることが出来ました。
そして、半年後に離婚。
その間、時々主人が私の部屋に泊まりにも来ていました。
離婚が決まった頃、主人は私との付き合いを誰にも言ってなかったけれど
義弟の会社の下請けの運送会社の運転手を募集していると
義弟から連絡があり、話を聞いたら私が移り住んだ住所のすぐ近く。
何か運命を感じた主人と私、かなり悩んでいたけれど
結局主人も横浜に来ることになりました。
それから、私達の付き合いは親密になって行きました。
私には5歳年下の弟がいますが、主人の話をした時
「俺より年下じゃなくて、良かった」
そんなことを言われました。

一方義弟は、高校に入学するもすぐに中退。
半年ほどの家出の後、義父の勤めていた会社に入社したと聞きました。
この会社は業界では大手の有名な会社、関東にいくつかの工場を持っています。
親子だから、勤務する工場は当然違います。
入社して数年後、Aちゃんが義弟の同じ工場に入社。
程なくして、義弟とAちゃんの社内恋愛は始まったようです。
Aちゃんも双子、双子の姉とその上にももう一人姉の3姉妹。
母親は9歳の時、くも膜下出血により他界。
男手一つで、3姉妹は育てられたと聞きました。
実家は父親と姉夫婦と、まだ結婚していなかった双子の姉が住んでおり
「実家は超がいくつも付く、超エリートだから」
そんな話も聞いていました。
義弟は中卒だと言う負い目から、仕事に全力を注ぎ
不眠症になり心療内科にも通ったりもしながら
一つの工場の立ち上げから任され、その工場の工場長にまで出世しました。
主人が横浜に来て、私が彩佳を連れて主人の部屋にいた時
義弟とAちゃんが突然遊びに来たのです。
「おかしいと思ったんだ。こっちのことよく知ってるから」
この時初めて、義弟とAちゃんは私の存在を知ったのでした。

最初から結婚を意識していた主人は、付き合い始めて1年が過ぎる頃
両親に私と娘のことを話しましたが、当たり前のことながら大反対。
バツイチの上子供もいる、さらに私の方が3歳年上。
反対する理由には充分すぎる理由です。
同じ頃、義弟とAちゃんの結婚も決まりました。
ハワイで挙式をすると言う二人。
社内でも評判の良かったAちゃんとのことは、両親ももちろん大賛成。
長男と次男は、比較されてもいたと思います。
長男はトラックの運転手、連れてきたお嫁さん候補はバツイチこぶ付き3歳年上。
次男は工場長と会社幹部に出世、お嫁さんは評判の良いお嬢様。

それでも主人と私は、その反対を押し切って同棲をすることにしました。

その後義父は系列会社の取締役を務めた後、定年退職を迎えました。
義父は主人に何かの会社の社長になってもらいたかったようです。
『憲一』という名前は、当時の統計で社長の名前に多かったと聞きました。

だけど主人は、トラックの運転手に誇りを持っていたし
仕事に対しても何に対しても、自分に厳しく立ち向かう人でした。
一緒に生活を始めてからは、子育て問題考え方の問題
ありとあらゆることでぶつかって、ケンカばかりしていた主人と私は
同棲を始めて1年後には同棲解消、別れることを決めました。
そこから始まった母子家庭。
けれどその後も、くっついたり離れたりを繰り返し
今考えると、主人も同じことを言いますが
『二人男女7人物語+1』をやっていたような、振り返ると本当に
いろんことを乗り越えた主人と私、そして娘・・・
娘の成長と共に、7年目を過ぎる頃には私達の関係も落ち着きだしましたが
その頃一生勤めるだろうと思っていた、私の勤めていた会社がほぼ倒産に追い込まれ
ハローワークで紹介された会社にも通ってみたけれど、残業ばかりで
家に帰るのが9時10時になってしまう。
そのため娘に影響が出始め退職、ハローワークに通いながら次の職探し。
半年が過ぎた頃に、主人もトラック持込みの話があり自営業に転職。
主人の仕事が順調に滑り出したので、経済的に余裕が出始め
二つの部屋を借りているのも、もったいないから3DKの部屋で
2回目の同棲を始めようと計画し、半年後に引越し。
ペット可の条件から、彩佳も私も念願だったわんこを飼う事にもなりました。
ラブラドールの女の子、エリーが家族の一員となったのです。
当時は夫婦別姓がTVで騒がれていた頃。
主人の両親は、私との付き合いを知らなかったけれど
私の父は、大人の決めたことに口出しはしないと言って何も言いませんでした。
主人も私も、籍にはこだわらず娘も4歳の頃から主人のことは
「お父さん」と呼んでいたし、特別不自由もなく新しい生活は始まりました。

一方義弟夫婦は、Aちゃんの実家から何かと援助を受けていたようです。
工場長の立場なんだからと、車も選んでいたようで50万の援助を受けて
トヨタマークⅡのセダンを新車で買ったようでした。
結婚後3年ほどで、やはりAちゃんの実家から1000万の援助を受け
建売新築住宅を25年ローンで購入。
やはりすぐにマルチーズを迎え入れ、新しい生活を始めていました。
私達と旅行にも行ったけれど、義弟夫婦は海外旅行に何度か行っていたようです。
順風満帆・・・私達とは違って、義弟夫婦はまさにその通りの
生活をしていたように思います。

義弟には高級志向があり、そのステータスをAちゃんとその実家が
満たしてくれていたようにも思います。
そしてAちゃんは、もちろん義弟を愛していたのだろうと思います。
二人でいるとなぜか近寄りがたいオーラを出していた義弟夫婦。
時には、主人や私を見下す言葉があっても
夫婦が仲良ければそれでいいことと割り切っていました。
あの日が来るまでは・・・


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家族の選択。。。

2007.04.01 (Sun) はじめに。。。

人間は人生の中で岐路に立った時
いろいろな選択をしながら、生きていると思います。

自分の夫が、妻が、子供が、親が、兄弟姉妹が
突然病に倒れ、命の選択を迫られた時
家族はどんな選択をするのでしょう?
そしてその結果、障害を持つことになったら・・・

主人の双子の弟が、突然倒れたのは2000年3月5日
けいれん発作から意識混濁となり、救急車で運ばれた義弟。
その3日後に転院し、転院先の病院で検査の結果
『悪性脳腫瘍』第4段階のうちの第3段階と診断された。
義弟の頭の中に出来た脳腫瘍は、脳の中心。
手術で全ての腫瘍を取り除くことは不可能と言われた。
身体の自由はきく範囲で腫瘍を取り除き
限られた時間を有効に使えるようにするための手術。
手術をしなければ1ヶ月、手術をしても2年と余命宣告もされた。

残っている腫瘍が動き出せば早い・・・
大きなけいれん発作が出れば、植物になるかもしれない・・・
手術はしたものの、明日どうなるか?わからない状態。

いろいろなことがあった中で
義弟が倒れてから、2年足らずで義弟夫婦は離婚
2001年11月30日から、1ヶ月程の別居を経て
そのまま義弟は我が家の一員となりました。

我が家に来てから3年目2005年秋
『高次脳機能障害』であることもわかり
それまでの義弟の不可解な行動や言動の意味がわかりました。

手術をしても2年と言われた命ですが
今もとりあえず、自分のことは自分で出来ています。

義弟が倒れてから、我が家の生活にもかなりの影響がありました。
義弟の病気と障害のことで、私達がしてきた選択は
正しかったのか?間違っていたのか?
答えを出すことはおそらく不可能だと思うけれど、前に進むしかない!

グチやぼやきばかりになってしまうかもしれないけれど
過去の出来事を含めて、我が家の生活を書いて行こうと思います。



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プロフィール

恵子

Author:恵子

2000年3月
『悪性脳腫瘍』と診断された義弟。
手術をしても余命2年。。。
いろいろなことがあって
いろいろな思いもあったけど
だけど、義弟も私達夫婦も
同居して約8年間がんばった!
2009年8月25日
午前10時59分
義弟がこの世を去るまでの
看護・介護の日々。。。

父の介護は
義弟の日々とのおかげで
暗くならずに過ごせています。

いろいろあって
ブログ維持が難しくなり
義弟との思い出として
ブログは残しますが
2013年6月30日を持って
終了しました。

長い間、読んでくださり
ありがとうございました。

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